思い出の東京納豆

 「納豆なんて糸引くしクッサイし、嫌やん」。
今でこそ関西でも納豆がたくさん売られるように なって、
納豆を食わず嫌いする人は少なくなったが
30年以上前には三重県でも納豆嫌いの人が結構いた。
そんなとき、私は言ったものだ。「納豆はおいしいよ。
食べずに嫌いなんて言うとんのと違うの。納豆で
命拾いした人かっておるんやから」。

 私には4歳年下の妹がいる。妹は幼児のころ、
消化器疾患で瀕死となり入院したことがあった。
幸い命はとりとめたものの、妹の食は極端に
細くなってしまった。たくさんの量が食べられない。
通っていた松阪市内の保育園では給食が皆と
一緒のペースで食べられず、先生から1人
居残りさせられて食べさせられていたらしい。
妹はそれが苦痛だったようで、ときには通園拒否を
起こしたりしていた。

 健康診断も妹にとって苦痛だったようだ。 お医者さんは
いつも「この子はやせ過ぎだ。 もっと食べさせないと
栄養失調になってしまうぞ」と叱った。実際、当時の妹は
栄養が偏っていたのか、ちょっとした擦り傷が
なかなか直らなかった。

 母は心配していた。とにかく好物を見つけなくては。
母はいろいろな食べ物を料理しては、妹に与えたが
決まってほとんど残してしまう。たいていの子どもが好物の
ウインナ―や卵焼きさえそんなありさまだった。
困り果てた母はある日、納豆を買ってきた。

 もともと我が家は納豆に抵抗がない家族だった。
母の父、つまり祖父は若い頃東京で暮らしたことがあって
伊勢にある母の実家では戦前から納豆を食べていた。
そんなこともあって私はすでに好物だったが、
母は妹にはそれまで納豆を与えていなかった。

 妹は熱いご飯が苦手なので、母は冷たいご飯に
納豆をかけて与えた。妹は糸を引く不思議な豆を
スプーンですくって眺めていたが、口に入れて一言。
「おいしいやん!」。ご飯は残さず食べてしまった。
彼女は小学校に入る直前にして初めて好物を得た。

 信じて頂けないと思うが、それから何と妹は短大を
卒業するまで、ほぼ毎日朝食に納豆を食べていた。
さすがに小食や偏食は中学生くらいには治っていたが、
小学生の頃などは味噌汁も漬物もなく、ひたすら納豆だけで
朝食を食べて学校に行った。

 小学校でも相変わらず給食を残していたらしいし、
時には意地悪な男子から「お前の息、納豆臭い」と
からかわれたこともあったが、納豆好きだけは 一貫していた。

 学校生活も楽しくなってきたようだ。納豆の栄養の
おかげか、徒競走は常に一位になるようになった。
他の子に比べ小さかった体も次第に大きくなった。
あるとき小学校低学年のとき、風邪を引いて
出かけた町医者が妹の体を見て「ぜい肉がなく
骨のしっかりした体をしている。何を食べているのか」と
付き添った母に尋ねた。きちんと食べられるものは
納豆だけと母が苦笑交じりに応えると、医者は
「それが肝心なんですよ」と頷いていたそうだ。

 そんな妹の食を支えたのは奥野食品の「東京納豆」だった。
母は近くのスーパーでも三交ショッピングセンターでも
八百久でも、とにかく買い物に行くとあの緑色のラベルを
探した。大粒の東京納豆でないと妹が納得しなかったからだ。

 「ウチくらい東京納豆を食べているところは松阪にないんやないか?」と
母はよく笑っていた。当時の東京納豆のラベルは裏にサービス券が
集められるようになっていた。母がそれを集めて
近所のスーパーで納豆に引き換えようとすると、店の人が
「これ持ってくるのは、おたくが一番多いわぁ」と
いつもびっくりしていたという。

 そんな妹も来年30歳。結婚して1児の母だ。この間、
妹宅を訪れたら1歳の甥が危なかしい手つきで
東京納豆を食べていた。早くも好物だそうです。

 「お兄さんは食べてますか」って?もちろんです。
妻も2歳の長男も一家そろって納豆好きです。

 以上嘘みたいな本当の話です。昔、母は「奥野食品に
礼状を書きたい」といつも言ってました。子どもの世話で
忙しくて、その思いは果たせていないはずですが、メールという
文明の利器ができた今、こうして御社にお礼が言えます。
長々とした文章をお送りしまして失礼しました。
本当にありがとうございました。益々の発展をお祈り申し上げます。

 

                    「名古屋市在住、T・K」

 

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