「松阪から四季 納豆の如く」



納豆職人 奥野 敦哉

「最終章  納豆職人として」
 連載開始から計24回、2年の間、私の読み辛い文章にお付き合いをいただきまして誠にありがとうございました。最終章となりきれいにまとめる器用さのない私ですのでテーマが入り混じるかと思いますが最後まで文章を見届けていただけましたら幸いです。
 前回、私の納豆職人になる直前の生活を書き、今回はその続き、最後を飾るのにふさわしく、東京での修業から松阪へ、私が家業である納豆屋に戻る(入社する)ところに触れたいと思います。平成6年4月1日、珈琲館ばるばどに正社員として入社いたしまして、珈琲職人修業と納豆勉強の両立生活が始まりました。菅谷社長より、どんどんと納豆に関する見聞を広めてくるように勧められ、地方の納豆屋さん、大きなメーカーの納豆工場、大豆問屋さん、スーパー各社、市場、容器問屋さんと目まぐるしく動きました。休日を会社に申請して上記勉強小旅行をしたりしました。もちろん、主流は尊敬する師お二人の元でおこなう珈琲職人修業であり、社会人としての修練、自己鍛錬を加えて充実したばるばど生活となっておりました。
 そのような生活を送る中で徐々に「将来納豆屋になったときにやりたいこと」が見え始め、というより蓄積されてきたという表現が正しいでしょうか、9月・・・、父から1本の電話がありました。「もう会社を止めようと思う。納豆屋を廃業しようと思う。」という内容でした。かねてよりとなりの町に大手納豆メーカーの工場進出があり、業績で苦戦しているということを聞いておりましたので私自身は意外なほど冷静に受け止められました。父は、廃業する様を目に焼きつけ今後の人生の糧にするように、私に実家へ家業へ戻るように電話をしたのです。私は父から初めて弱気な言葉を聞きました。また、それ以後他界するまで父から弱気な言葉を聞いてはおりません。それほどの父の言葉でしたので私は決意をいたしました、松阪へ戻ると。しかし、恩師から決められていたのは3年間修業するということ。その間に私を育て上げる算段、どのようなことがあっても3年間は辛くても頑張れということでした。
森の番人納豆とご飯








森の番人ナチュラルウォーターと納豆

 まだ1年も経っていないのに田舎へ帰るということ、理由を話せば解ってくれるお二人だったのですが、私は若気の至りか、実家の会社が店をたたむ、廃業の危機にあるとは言えませんでした。恥ずかしかったのか、誰にも知られてはならないことと思ったのか・・・そのことを思えばやはり冷静ではなかったということでしょう。
今ならばそれぐらいのこと、胸のうちをさらけだせばいいものを心を閉ざして、修業を止め松阪へ帰る理由を言わずにただ辞めますだけでは納得をしてもらえるはずがありません。ましてや、忙しいお店の都合もあり、許される状況ではありませんでした。結局、年を越して2月に退社の許可をいただいたのですが、破門も同然で、期待に応えられなかった申し訳ない気持ちで松阪へ戻ることになりました(ただ、その時の気持ちを思い出してみますと気持ちを前向きに切り替えなければと納豆業界に入る期待感もブレンドしていたような感じです)。私の未熟さを承知の上でどれだけ失敗をしても成長の為に要のポジションを実践経験させ、勉強の為とはいえ私自身の都合によるスケジュールを認めてくださったことなど、師お二人の"経営者としての覚悟"と"弟子への情・心遣い"が後年に年下の部下が出来るようになってからの私に深く沁みてきました。恩返しは自分の成長した姿を見せることと思い、納豆職人として、そして経営者として向上出来るように打ち込もうと決めました。

 同業他社が参入し低価格競争の激しくなっていた納豆流通状況に地元も巻き込まれ、品質よりも卸値の安さに取引が左右される中、平成7年3月私は奥野食品に合流したのです。そのバランスが乱れた過剰な安売り合戦の状況からスタートし現在まで奥野食品が生き残ることが出来たのは「毎度おなじみの底力」を地元消費者に再認識してもらえたからです。それは幸いにも多くの良き仲間との出会いのおかげでした。同じ志を持った地元生産者の方々が私に勇気と情熱を与えてくださり、皆様と一緒に行動する機会が多くなっていくにつれて「奥野食品=地元の生産者」と一目でわかり、地元消費者の皆様から信頼と安心感を得ていっていることが実感できたのです。また、肝心の商品開発においても地元特産品と納豆で表現する「三重の地納豆シリーズ」に繋がり、ブランドは同時にこだわり路線を確立し、同業他社との価格競争から距離を置くこととなりました。卸値の安さではなく品質で取引を考えるという概念が成立したのです。また、大豆生産者の皆様や大豆問屋様のおかげで安全で質のよい大豆が手元に届き、奥野食品の品質が現在も変わらず保たれています。
東京納豆

 こだわり地納豆だけでは奥野食品は生き残れませんでした。東京納豆の提案です。地元スーパーでは特売でもあたりまえに売られているスタンダード納豆である東京納豆も地力をつけていきました。東京納豆は三重県では50年の伝統で"毎度おなじみ"色が強く、TVでCMを打つような大手メーカー商品に挟まれ、埋もれてしまいそうな状況でしたが、東京納豆は内容充実を重ねることで取引先担当者様のご理解を徐々に得ていきました。背景には地元特産品とのコラボレーションである三重の地納豆シリーズより始まる地産地消活動がきっかけで価格競争に巻き込まれなくなったことで原価の下落に歯止めがかかり、その分、諸原材料を吟味することができたこと、一方で通信販売に目途が立ち、注文が増え、会社売り上げの柱となっていったことも起因しております。納豆の技術的には株式会社赤塚植物園様のご指導によるFFC(元始活性水)システムのおかげで納豆の品質を向上させることができました。東京納豆は国産大豆100%でもあり、現在も庶民価格で品質の良いスタンダードタイプの究極を目指す納豆となっております。
釜社長
スタンダード(東京納豆)とこだわり(三重の地納豆)というダブルブランド確立は「納豆専門店」という奥野食品の特異性をものがたります。この概念は私ひとりでは認識できませんでした。私の感覚を刺激してくれる方々、仲間との会話の中で少しずつ浮き彫りになっていきました。その刺激をいただける方として忘れてはならないのが納豆学会主宰の三井田孝欧さんです。
 三井田さんとはじめてお会いしたのは平成11年です。初夏の頃、納豆学会メーリングリスト内で納豆工場見学先を募集する三井田さんからのメールが全国に流れました。私はその頃はホームページ開設準備をしている状況で、インターネットだけ楽しんでいた時期で納豆学会サイトとメールは毎日チェックしておりました。工場見学先募集は三井田さんとお会いできるかもしれない良い機会と感じ、ダメで元々と応募返信をメーリングリスト上に出しました。ほどなくして三井田さんから連絡があり、伊勢神宮参拝と共に工場に立ち寄る旅の企画としていただくことになりました。初めて会った時の三井田さんの印象は、独特の思考をする真面目な方で生きる力に溢れた気配りの人という感じでした。三井田さんの相手をたて、深い会話のできる高度なコミュニケーション能力と一見突飛ですがよく考えてみると真っ当でモラルに沿った判断原理に基づく一貫した行動力は市議会議員として柏崎市民のために活動するようになった今も変わっておりません。議員活動では若さゆえの真っ向勝負で真実を追究することで少し周りから浮いてしまっているようですがこれこそ市民のために必要な行動でそこに私欲はなく、結果、たとえどのような状況におかれても覚悟の上で一生懸命楽しんで生きるという潔い決意は私も見習いたいと思います。

 平成15年11月、奥野食品は東京の日本橋三越本店にて物産展に参加出展をしておりました。当店にとっては集大成のようなもので普段は片方だけで出張する私たち夫婦ですがその時は揃って参加をしておりました。ちょうど三井田さんも東京へ来られるというので会う約束をして東京へ向かったのです。私は搬入設営と初日のサポートをして松阪へ戻る予定でした。商品と備品を積んで車で東京まで来ていましたので三井田さんをどこか都内の目的地まで車でお送りすることにしておりました。三井田さんは池袋の歯医者に用事があるとのことでしたので首都高速で池袋へ向かいました。その途中、私の口から「三井田さん、一緒に"新大塚"へ行ってもらえませんか?」と(池袋と新大塚は隣です)。三井田さんは事情を察してくださいました「いいですよ!」。初対面からこれまで三井田さんと様々なことを語り合ってきましたので私のこれまでの経緯も承知の上、ばるばどへ同行してもかまわないとのことでした。修羅場に遭遇するかもしれないのに・・・。

 目的地に近づく車内で「やっぱりやめましょう・・・」私は怖気づきました。その気持ちも解かる。揺らぐ私に三井田さんは「けじめは早いうちにつけたほうがいいですよ。今を避けてもまたいつか同じ気持ちになる。同じなら今。私もいます。」と・・・。ばるばどのドアを開けて店内に。やはり一瞬硬い空気が流れます。三井田さんはカウンターへ。お二人と会話をするのならテーブル席では意味がない、カウンターで真正面でということだったのでしょう。硬い空気は三井田さんと大内店長の会話でほぐれていきました。私と一緒に入ってきたといってもお客様です。お客様との会話もばるばどの接客サービスです。様々な体験をしてきた三井田さんと名店マスターのお二人です、納豆学会の名刺を渡し、4月に市議会議員となった状況など、会話ははずみ、取り残されたカタチの無口な私にも菅谷社長は近況を聞いてくださり、大内店長は昔と同じように冗談をぶつけてくださるなど先ほどの不自然さが嘘のように、まるで正社員になったあの頃のように。そうか、もう10年近くなるのか、お店を飛び出してから・・・。

 「久しぶりだから、ゆっくりしていけよ」と菅谷社長も言い残し帰路に。お店は大内店長が仕切ります。三井田さんと大内さんの笑い声が心に沁みる私に三井田さんは私にシグナルを、「(もう充分です)さぁ、出発しましょうか!」と私。会計のレジで大内さんは「コーヒー代は結婚祝いだ、とっとけ!」と。結婚した報告はしていません、ということはウチのホームページを見て・・・、見守ってくださっていたのです。私は感極まり目が潤みました。「コーヒー代は・・・、それよりも私の破門を解いてください。」私は言葉を絞り出しました。大内さんは「東京へ来たら必ず顔を出せよ。今度、酒をつきあえよ!」と笑顔を返してくださいました。(後日知ったのですが、うんうん、良かったですねと最後まで付き添って何事も無かったように「じゃあまた!」とお別れした三井田さんでしたが実はその日、人と会われる次の約束をキャンセルしてくださっていたのです。私は「自分の特徴は運の良さです」と普段言っていますが同時に「自分の特徴は恩人が多いことです」と付け足します。様々な恩人に出会い引き上げていただいて今の私は存在しています。)
 お店を出ると私にはばるばどに入るドアを開けるまで染み込んでいた"魂の重さ"、それが罪悪感なのか、挫折感なのか、自分自身への不信感だったのか解かりませんが、魂を重くしていたものが無くなっていました。どれだけ新作品を世に出そうが、どれだけ売上げが上がろうが、どれだけ嬉しいことがあろうが根底に染み付いていた重くて黒いものがその瞬間、剥がれて無くなっていることに気がついたのです。
 心の空白9年を埋め、決意を新たに10年目に入った私に突然の転換が訪れます。平成16年1月9日早朝4時、入院していた父が亡くなったのです。悲しみは魂に入ってきました。心が空白のままだったらすぐに満杯になり溢れ出していたでしょう、絶望感となり・・・。私のリセットされていた魂はこの悲しみをゆっくりと受け入れ、溶け込み、父への愛情、社長を人生を全うしたことへの尊敬、そして家族にとって家長としての存在の大きさがわかってきました。それでも溢れそうになります。現在私が社長として全うできているとは到底思えませんが溶け込んだ父の残像は私の基準となっております。いつかは私の轍も後年の経営者の方の目にさらされます、納豆職人としても。そのときに「この轍も好きだな」と思ってもらえるように納豆屋のこの道を行きたいと真剣に思います。

最後に私の好きなアントニオ猪木さんも好んで引用されます一休宗純和尚の詩を掲載させていただきましてこの連載の締めとさせていただきます。


この道を行けば
どうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せば
その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ
一休宗純

2年間のご拝読誠にありがとうございました。
納豆職人 奥野敦哉

またあいましょう〜


※ 株式会社赤塚植物園
〒514-2293 三重県津市高野尾町1868-3  http://www.akatsuka.gr.jp
FFCテクノロジーを開発。FFCとは(Ferrous Ferric Chloride)の略で地球上の生命を誕生させ育んだ太古の海水と似たような機能・特性を持ってます、またあらゆる生物の機能を高める働きがあるといわれてます。
花にあふれた本社横のパビリオンは今や癒しの名所となっています。また、国際博覧会「愛・地球博」バイオラングのオフィシャルパートナーとしても有名です。
私とFFCテクノロジーの出会いは「本物の水が地球を救う」(吉川潔氏著)という本を東京ばるばど時代に読んだ時です。東京で多くの情報に触れる中、松阪のとなり、津市の会社が開発した技術ということで何かご縁を感じました。導入当時、研究所の皆様は当店工場に何度も足をお運びになられ、ご指導をしていただきました。FFC水を使用した納豆においては納豆菌を強く健やかに育て大自然の癒しを感じるような美味しい納豆となり、安心してお召し上がりいただけます。

※ 三井田孝欧さんは私と同年代。現在、新潟県柏崎市の市議会議員を務めておられます。
納豆についてのことだけでなく、彼でなくては出来なかったであろう珍しい体験記も載録してあるホームページ「納豆学会http://www.nattou.com 」はアクセス150万ビューを超える納豆コミュニティーNO1サイトといわれています。
ちなみに当店、三重の地納豆ホームページは納豆"商用"サイトNO1と自分だけで思って意気込んでおります。

※ 「珈琲館新大塚ばるばど」は社長菅谷氏、店長大内氏のダブルマスターで切り盛りしています。東京新大塚になくてはならないお店。常連のお客様それぞれに合わせたサービスを心がける都内有数の珈琲専門店。師お二人、菅谷社長は私の父のような、大内店長は私の兄のような大切な存在です。現在、東京出張の度にお店で自分自身を全てリセットし未来へ向けて松阪へ戻ってきます。

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