本誌読者の皆様、今回から連載をさせていただきます奥野敦哉と申します。三重県松阪市にて納豆専門店を営んでいますので地元では本名より「納豆屋」で通っています。つまらん文章になるかもしれませんが、若気の至りということでお許し下さい。それでは宜しくお願い申し上げます。
「第一章 松阪なのになぜ東京納豆?」
まず、自己紹介を兼ねまして当店の説明をさせて頂きます。当店は奥野食品株式会社と申しまして昭和25年創業から納豆だけを製造しております。ブランド名は「東京納豆」・・・。よく知人から「何で松阪なのに東京納豆なの?」と尋ねられます。創業時から東京納豆なのですが「あぁ、水戸納豆もあるから東京納豆があっても不思議でない。」で話が終っては面白くありません。何の変哲の無いこの「東京納豆」のブランド名、実は当店には物語があるのです。

 当店の創業者は私の祖母、奥野さかゑでして、元々納豆とは関係の無い生活を送っておりました。時は大東亜戦争の終戦近く、さかゑの夫、私の祖父、金蔵がフィリピンにて戦死を遂げました。


旧工場の写真(創業間もない頃です)

大黒柱を失った奥野家にはまだ5歳と2歳の幼子がいました。終戦直後、少ない農地で作物を作っていましたがこのままでは将来子供を学校に進ませることが出来ないと考えた祖母は自分でできる商いをさがしていました。

時を同じくして窮状を聞きつけ、東京で納豆屋を営んでいる親戚が祖母に納豆作りを勧めてくれたのです。祖母はそのめぐり合わせに運命を感じ、納豆文化のなかったこの地方で納豆屋を始める決意をしたのでした。後日、列車を乗り継ぎ遠く東京まで修業に行き、納豆作りを丁寧に教えていただいたとのことです。


納豆文化のないこの地方でしたがそれでも納豆は少量ながら店頭に並んでいたようです。

商品、今と昔(三角が創業時ラベルとその手前がデザイン
案と栞・現在のサン パック納豆と森の番人納豆)釜の上で
撮影しました

ただ、その当時、冷蔵流通便の発達していない時代です、遠くから仕入れる納豆は道すがら荷台温度の上昇など熱がかかった状態でアンモニア臭く、ネバ糸が溶けて粘りがなくなっていたそうです。ましてや小売店でも冷蔵庫に納豆を入れる習慣が無かったと聞きます。そのような状態ですので、お客様の食卓にのぼる頃にはまるで"臭い煮豆"となっていたのではないでしょうか。そのような中、丁寧につくり、地元で作りたての新鮮な納豆を配達する・・・しっかり粘る東京式の納豆、「東京納豆」の誕生です。納豆の名前は"恩人に感謝を忘れないように"との思いが込められているとのことです。と書けばカッコイイのですが、私が小さい時「"とうきょう"という言葉があの時はハイカラでなぁ〜云々」とおばあちゃんから聞いたような気が・・・。今でもご近所ではハイカラばあちゃんで通っている元気な88歳です。

※後の初代社長(故人・私の父)と現副社長です

※親戚の納豆屋さんは黒澤納豆といい現在は廃業されています。その時代、納豆作りは女手一つでは過酷とされていたとのことです。

祖母と私(昭和四七年時)

 

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